東アジア共同体研究所

「損切り」のできない国・ニッポン~オリンピック中止論議のもどかしさ Alternative Viewpoint 第22号

Alternative Viewpoint 第22号

2021年5月22日

昨年3月24日、安倍晋三前総理は昨夏開催予定だったオリンピックを1年延期するようIOCに提案した。その日、世界で約4万3千人が新型コロナに感染し、2千人弱が死亡。日本では39人の感染が判明し、2名が亡くなった。[i] 翻って今年5月19日、世界で1日約55万人がコロナに感染し、1万1千人あまりが死亡。日本では4,877人が感染し、260人が死亡している。

検査数の増加等という要素を考慮したとしても、世界と日本の両方でコロナの感染状況は今の方がひどい。[ii] しかも、開催国・日本のワクチン接種率は5月18日時点で3.9%(1回接種した人)。ミャンマー(3.1%)よりも上だがインドネシア(5.1%)の水準に届かない。にもかかわらず、菅義偉総理は虚ろな目をして「安全安心な大会は実現可能」と繰り返し、オリンピック開催を強行する構えだ。〈正気の沙汰〉ではない。

国内外ではオリンピック中止を訴える論調がジワリと広がりつつある。読売新聞が今月7~9日に行った世論調査によれば、東京五輪開催を「中止する」べきという答が59%にのぼった。[iii] 菅が「安心・安全」を強調するようになったことを受け、海外メディアを中心に「日本政府はオリンピック中止を密かに検討している」という見方も出ていると言う。政局ファーストで有名な小池百合子都知事についても、「オリンピック中止を打ち上げるのではないか」という観測が絶えない。

しかし、私の率直な印象では、日本国内のオリンピック中止論は今一つ盛り上がりに欠ける。宇都宮健児氏が行う東京五輪反対のネット署名は開始から9日間で35万筆を超えたが、(少なくとも今のところ)政権やIOCに脅威を与えるほどのものとはなっていない。[iv] 観客制限または無観客での開催を支持する国民も、前述の読売新聞で39%、5月15・16日に実施された産経新聞・FNNの世論調査でも42%程度は存在する。この期に及んでもオリンピック開催を支持する声は根強い、という見方もできよう。[v]

私は、オリンピックは即時中止(返上)すべきだと考えている。しかし、コロナの感染状況が現状程度のままで推移すれば、オリンピックは無理やり実施される可能性の方が高い。極めて遺憾だ。

なぜ、日本はオリンピックをやめるという決断ができないのか? なぜ、オリンピック中止論は盛り上がらないのか? AVP第22号では、「損切り」という言葉を切り口にしてその理由を探ってみたい。

 

 

「損切り」という発想

去る5月5日、米ワシントン・ポスト紙は「日本政府は損切りし、IOCには『略奪するつもりならよそでやれ』と言うべきだ」というコラム記事を掲載し、オリンピック中止論をぶった。[vi] 執筆者のサリー・ジェンキンスはIOCのトーマス・バッハ会長を「ぼったくり男爵」と呼び、多くの日本人の快哉を浴びた。だが、大昔に銀行で為替ディーリングをやっていた私には、彼女が使った「損切り(cut losses)」という言葉の方が目を引いた。

株や為替をやっている人なら、「損切り」という言葉を耳にしたことがあるかもしれない。馴染みのない人のために簡単に説明しておこう。株や為替を売買してポジション(建玉)を持った時、相場が思った方向にいかず評価損が膨らむことが往々にしてある。その際、反対取引を行ってポジションを手仕舞い、損を確定させることを「損切り」と呼ぶ。評価上の損失が現実の損になるため、極めて辛い選択となる。だが、損切りを行えば、相場がそれ以上どんなに逆方向に動いてもそれ以上に損失が膨らむことはない。損切りを行った後、心機一転して次の勝負に挑むのである。

相場の読み間違いは誰にでもある。相場が読みと逆方向に行った時、いかに早く損切りするか? あるいは耐えて無駄に損を出さないか? 損切った後でいかに気持ちを切り替えることができるか? 損切りは判断と胆力を要求される本当にむずかしい行為だ。私も「儲かるトレーダーは損切りがうまい」と教わったものである。金融機関では担当者ごとに損切りルールを設定し、評価損があらかじめ決められた金額に達したら強制的に損切りさせる仕組みを導入していることが多い。(損切りルールで定める水準に達する前であっても、トレーダーの判断に基づいて損切りを実行することはもちろん構わない。)

2013年にオリンピック招致が決まった時、大会の開催経費は7,340億円と言われた。それが昨年末時点になると3兆円近いという見積もりに膨れていた。最終的にはもっと増えるだろう。オリンピックを今夏開催しても、海外からの観光客は受け入れない。国内の観客ですら、良くて人数制限、おそらくは無観客となるだろう。入場料収入のガタ減りは火を見るよりも明らかである。人流抑制と言う以上、関連イベントや便乗商法も低調に終わるだろう。大会を開催してもオリンピックが収支面で黒字になることはありえない。一方で、オリンピック開催を強行し、それが原因となってコロナ感染が拡大すれば、人々の生命や健康は中止した場合と比べて遥かに大きな危機にさらされることになる。その結果、オリンピック後にも緊急事態宣言を出す羽目に陥れば、日本経済全体がこうむる損失は見当もつかないくらいに拡大する。「オリンピックは開催しても中止しても損失が出る。でも、中止したほうが損失は小さい。だから『損切り(中止)した方がいい』」と言うのがジェンキンスの主張である。

 

 

オリンピックと相場の違い

損切りの発想でオリンピックを中止(返上)せよ、という議論は至極まっとうなものだ。しかし、日本では何故か通りがよくない。その理由を紐解くため、以下では〈相場の世界の損切り〉と〈オリンピックにおける損切り〉の相違点を明らかにする。

 

1. 金銭以外の判断要素

相場の場合、損切るかどうかの尺度は圧倒的に〈金目〉、つまり評価損の多寡である。それに対し、オリンピックを「損切る」という場合の判断材料は様々だ。1976年冬季オリンピックの開催が決まっていたデンバー(米コロラド州)は1972年時点で大会を返上した。その際の理由は、多額の費用負担環境破壊への懸念等であった。

東京オリンピックを中止するか否かの判断に関しても、経済的損失という〈金目〉の問題はついて回る。さらにその金目の問題は、前述した大会の直接的な収支、スポンサー・マスメディア・広告代理店等、オリンピック関連ビジネスの損得日本経済全体に対する波及効果に分かれる。

コロナ禍で行われる東京オリンピックの場合、〈オリンピック開催に伴ってコロナ感染が拡大するリスク〉と〈限られた医療資源の一部をオリンピック開催のために使う結果、日本のコロナ禍が疎かになる懸念〉も大きな判断要素となる。オリンピックを中止すべきだと考える国民の多くにとっては、これが一番の関心事なのだと思う。

選手たちへの同情と共感開催国としての責任感これまでの努力が無駄になることへの割り切れなさなどから、国民の間には「オリンピックを何とか開催したい」という素朴な感情があるのも事実である。

一方で、オリンピックを中止するようなことになれば、政府、東京都、組織委、JOCの面子は丸つぶれとなる。政権側の立場からすれば、今年10月までに行われる総選挙への影響が一番の関心事であることは言うまでもない。

オリンピックを損切るか否かの判断要素はこれだけ多岐にわたる。しかも置かれた立場によって何を重視するかが違う。オリンピックの損切りが複雑怪奇なものとなるのは必然である。

 

2. 損失確定の計算

相場の場合、ある時点における評価損の計算は明快だ。1000円で買った株が700円に下がった場合、〈300円×株数〉が評価損となる。将来、もっと下がって500円になれば、〈500円×株数〉である。損切りルールによって強制的にポジションを手仕舞う場合も逆算から損切りのポイントを決めやすい

オリンピックの場合、大会中止に伴う経済的損失の計算と言っても簡単ではない。大会の運営に関わる直接経費だけなら、おおまかな試算は可能であろう。だが、コロナ禍を理由に大会が中止となったときの放映権料等の損害賠償や違約金が発生するのかは、言わば〈出たところ勝負〉になる。場合によっては裁判になるかもしれないため、支払いの是非や金額をあらかじめ見通すことはできない

電通やテレビ局などオリンピック関連ビジネスの収支も〈藪の中〉だ。こうした企業は、オリンピックが開催されればどれだけの収入が見込め、中止されればどれだけ損になるのかを(少なくとも事前には)公表しない。

日本経済全体に対する波及効果の計算も一筋縄ではいかない。普通に考えれば、オリンピックは開催した方が中止するよりも日本経済にプラスとなる。しかし、オリンピックを開催したことによってコロナ感染が拡大し、夏以降も緊急事態宣言を繰り返すことになれば、オリンピックの開催は日本経済にとって寧ろ巨大なマイナスになる。また、オリンピックをどうしてもやりたいがために現在の緊急事態宣言をオリンピック直前まで延長すれば――狂っているとしか言いようのないシナリオだが、そんなことを言う閣僚もいるらしい――、4-6月期の経済成長率は二期連続でマイナスになるだろう。[vii]

政権の支持率や選挙への影響といった政治的な損得計算は数値化することができない。だが、菅の思惑を想像すれば、以下のようなものであろう。

  オリンピックの開催に漕ぎつけることができれば、ラグビー・ワールドカップの時のように国民は熱狂する。今はオリンピックを中止すべきだと言っている連中も「開催してよかった」と思うだろう。ワクチン接種が進めば、コロナ感染が大きく拡大することはおそらくない。そして、ワクチン接種を終えた連中は政府に感謝するはずだから、ワクチン接種が進むにつれて支持率も回復する。オリンピックの開催とワクチン接種の進展を実績に掲げて任期満了直前に解散すれば、野党も弱いことだし与党の大負けはない。私の政権も維持できるはずだ・・・。

この邪推が正しければ、菅にとってオリンピックの中止は「損切り」などではなく、選挙での勝利という「利益の放棄」を意味する。そりゃあ、中止したくないはずである。

 

3. まかり通る「切り離し」論

相場の場合、「このまま時間が経てば相場が不利な方向に動き、損が拡大する恐れがある。だから今、損切らなければならない」と考える。この考え方をオリンピック開催問題に適用すれば、「東京オリンピックを実施すれば、大勢の外国人が入ってくるだけでなく、日本国内でも人流が増える可能性が高い。そのリスクを避けるため、オリンピックは中止しなければならない」となるはずだ。しかし、政府などオリンピックを推進する側の人々は「事態が都合の悪い方向に動くかもしれない」というリスク管理上の前提を置くこと自体、拒んでいる

菅が強調するのは「(大会における感染)対策を徹底することで、国民の命と健康を守り、安心・安全の大会を実現することは可能」というスタンスである。大会と日本国内を遮蔽する、という意味で本稿では「切り離し」論と呼ぼう。組織委等の言い分では、各国選手へワクチンを供与すること、滞在先や移動手段の限定によって選手や大会関係者と一般の国民が交わらないようにすること、選手は毎日検査を行うなどの厳格な感染対策を徹底することによって「切り離し」は可能となる。これに「オリンピック開催に伴う医療機関の確保は現在勤務していない潜在看護師の動員等によって手当てする。だから、オリンピックが国内のコロナ対策に悪影響を与えることはない」という眉唾いっぱいの説明が加われば、国内のコロナ感染状況の如何にかかわらず、オリンピックは開催できる、という論理の出来上がりだ。

強権的手法で見事にロックダウンをやってのける中国政府が言うのであれば、このような主張も説得力を持つ。しかし、海外から帰国・入国した人に2週間の自己隔離を課すと言いながら、1日最大300人の違反者が出ても事実上黙認し、変異株の国内流入を許してきた日本政府に言われても、机上の空論にしか聞こえない。[viii] しかも、数万人とも言われる各国選手団の役員・スポンサー・報道陣への対応はどうなるのか? 彼らのうち、少なくとも一部は選手村の外のホテルに泊まり、取材活動等で出歩くはず。「一般の国民と交わらないようにする」ことなど不可能だ。私に言わせれば、切り離し論はイカサマ論法である。

ところが現実には、「切り離し」論に対する国民の反応は必ずしも否定一色ではない。日本でもコロナ感染状況がひと頃の欧米諸国や最近のインドのように感染爆発の様相を示していれば、政府が「オリンピックと国内のコロナ感染は遮断できる」と言っても「ふざけるな!」という声にかき消されていただろう。しかし、日本のように感染状況が「つらいけれども最悪とまでは言えない」程度で推移している場合、人間は――菅義偉を含めて――〈そうあってほしい〉という希望にすがってしまいがちだ。[ix] しかも、次項で述べるように日本では一種の〈情報操作〉が大々的に行われている。その結果、ずさんな「切り離し」論であっても「何となくそうかな」と思われてしまう事態となっている。

 

4. 歪められる情報

相場の世界では、評価損益はトレーダーにとって自明の数字となって表示される。そして、トレーダーの持つポジションの評価損益は(不正がない限りは)コンピュータ・システムを通じて管理者がほぼリアルタイムで掌握し、チェックしている。これに対し、オリンピックでは数多くの利害関係者たちが情報を歪めて伝えるため、最終的な主権者でありチェック役ともなるべき国民に現状を正しく報告する仕組みが損なわれている。

「第4の権力」と言われ、政権に対するチェック機能を期待されるマスメディアが、ことオリンピックに関しては利害関係者の一員であることの弊害は格別に大きい。ついこの前まで、テレビ番組でオリンピック開催に否定的な意見が聞かれることは、まったくと言ってよいほどなかった。オリンピック中止を求める世論が強まってきたことに伴い、最近でこそオリンピック開催に対する懐疑論や慎重論が紹介されるようにはなった。しかし、ほかのテーマなら言いたい放題の司会者やコメンテーターたちが、オリンピック開催が話題になる一様に歯切れが悪い。珍しくオリンピック開催に否定的な意見をぶつ出演者がいても、慌てた司会者や別の出演者がオリンピック開催にプラスとなる発言を行い、すかさずフォローしている。

民放はオリンピック関連のCM収入を当て込み、NHKは大会の放映に威信をかけている。オリンピックが中止になれば、関連企業のみならず、テレビ局にとっても大打撃だ。加えて、テレビ局や新聞社には、東京オリンピック組織委員会のマーケティング専任代理店を務める電通に対する忖度もあると言われている。電通はオリンピックだけでなく、日本で行われるほとんどすべての国際スポーツ大会を取り仕切る巨大独占企業だ。テレビ局や新聞のために企業から広告料を取ってくるうえでも電通の役割は欠かせない。かつて電通の高橋まつりさんが過労自殺して社会問題になった頃、某テレビ番組に出演した人が「プロデューサーから『電通の件には触れないでください』と言われたよ」と苦笑いしていたのを思い出す。オリンピックについても同様のことがまかり取っているとすれば、ほかのテーマでは言いたい放題の識者や芸能人が妙におとなしいのも合点がいく。

政治の方も似たり寄ったりだ。政府が大会開催の方針を堅持する限り、自民党と公明党が開催支持を崩さないのはまあ当然であろう。だが、野党もオリンピックについては奥歯に物が挟まったような言い方に終始している。オリンピックの開催に明確に反対すれば、「アスリート・ファーストではない」「時刻開催に水を差した」等々と批判され、選挙で不利になることが心配なのだろうか。最近は世論そのものがオリンピック反対に傾き始めたため、野党もオリンピック反対の色を出し始めてはいる。それでも、はっきり言って〈煮え切らない〉。立憲民主党の枝野幸男代表は5月10日の衆議院予算委員会でオリンピックの開催は「不可能と言ってもいい」と述べた。だが同時に「私も見てみたい。奇跡的にここから感染が抑制できて、開催できることを期待している」と保険をかけた。国民民主党は5月13日に党声明を出し、予定どおり7月に開催できるかどうかを第三者機関で5月中に検証し、困難だと判断した場合には、再延期すべきだと求めた。[x] いずれもオリンピック中止を求めるストレートなメッセージにはほど遠い。[xi]

かくして日本では、国民の約6割が今夏の開催を中止すべきだと考えていても、それを代弁する声が表面化しにくいという〈反・民主主義の構造〉が出来上がっている。価値観(民主主義)外交を振りかざす日本の〈不都合な真実〉の一つと言えよう。

 

5. 諸外国の思惑

相場の損切りには外交の要素は入ってこない。だが、オリンピックは国際関係の影響をもろにかぶる。

オリンピックは国際大会だ。日本だけが開催しようと思っても大会は開けない。日本以外の主要国が(日本または自国の)コロナ感染を理由に選手団の派遣を断ってくれば、東京オリンピックは頓挫せざるをえない。

幸か不幸か、諸外国がこぞって東京オリンピックへの参加を取りやめるという動きには今のところなっていない。前述のとおり、日本の感染状況は多くの国から見れば「自国の状況よりはマシ」と考えられるレベルのものだ。例えば、ワクチン接種が進んで感染状況が大幅に改善した米国の5月19日の新規感染者数は23,942人であるのに対し、日本は4,877人。人口比(米国は日本の約2.7倍)を勘案しても米国の方がまだ大分多い。日本国民の多くが懸念する医療崩壊のリスク――裏返せば、日本の医療システムの脆弱性――も海外の人には理解不能だろう。しかも、開催都市契約には、東京都、JOC、組織委員会は「大会に関連する医療/保健サービスのあらゆる事項について責任を負」い、IOCから受けたすべての指示に従うことが明記されている。日本がオリンピックを開催する以上、日本の医療がどうなろうと選手団等の安全・安心は確保されるはずだ、と考えても不思議ではない。

以上に加え、外交的な計算や国内事情から、各国はオリンピック中止を言い出さないという側面もある。

≪米国≫はバイデン大統領が2月7日に「安全に開催できるかどうか科学に基づき判断すべきだ」「開催できると願っているが、まだ分からない」と述べた後、オリンピックについての態度をまだ明らかにしていない。先月16日の日米首脳会談の際に発出された共同声明では、「バイデン大統領は、今夏、安全・安心なオリンピック・パラリンピック競技大会を開催するための菅総理の努力を支持する」という微妙な表現でお茶を濁した。

日本との連携強化を対中戦略の柱の一つに据える米国は、菅政権がオリンピックを開催する方針を堅持している以上、その面子を潰すような真似はしにくい。また、コロナ感染の傷痕と国内の分断状況が深刻な中、オリンピックでの米国人選手の活躍によって国民の不満をガス抜きし、政権浮揚につなげたいという思惑も当然あるだろう。しかも、米国内ではワクチン接種が進み、コロナの感染状況も最悪期を脱した。日本の感染状況の如何にかかわらず、米国選手団だけの安全・安心は確保できる、という確信が〈科学的に〉持てるようになれば、米国政府もオリンピックの開催に明確なゴーサインを出す可能性がある。

≪中国≫は来年2月に北京で冬季オリンピックを開催する。それでなくても、欧米諸国には人権問題を理由にした北京オリンピックのボイコット論がくすぶっている。東京オリンピックの中止がドミノを起こし、北京オリンピックの中止論が出てくることは何としても避けたいところだ。

加えて、米中対立が激化している今日、日本が米国のもとに走らないよう、日本政府の足を引っ張る真似はよした方がいい、という計算も働く。だからこそ、中国政府はこれまでも一貫して東京オリンピック開催に支持を表明してきた。今月7日には習近平主席がIOCのバッハ会長と電話会談し、東京五輪の開催を支持すると述べている。

≪G7≫もこれまでのところ、「日本のお手並み拝見」という雰囲気。2月19日に開催されたG7首脳テレビ会合の際に発出された首脳声明は「新型コロナウイルスに打ち勝つ世界の結束の証として今年の夏に安全・安心な形で2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催するという日本の決意を支持する」と述べていた。日本政府に一定程度配慮してはいるが、G7として今夏のオリンピック開催にコミットすることはうまく避けている。開催の連帯責任まで負うのは〈まっぴらごめん〉というわけだろう。(なお、5月21日にフランス政府がマクロン仏大統領の東京オリンピック開会式を発表したのは、東京の次がパリ大会であることを考えればむしろ当然である。)

今後、注目すべきは6月11~13日に英国コーンウォールで開催されるG7である。オリンピックの本番まで1ヶ月あまりとなったサミットで、2月のオンライン会合と似たような表現が盛り込まれれば、日本政府は自己責任で大会の開催になだれ込むことになる。

 

「損切り」に失敗するパターン

ここまで相場とオリンピックの「損切り」は何が違うかについて説明してきた。その目的は〈オリンピックを損切ることのむずかしさ〉を理解するためであった。そのことを一度、思い起こしていただきたい。相場もオリンピックも、損切りに失敗すれば、とんでもない災いを招く。相場とオリンピックにおける「損切り」の違いをわかったうえで、オリンピックはやはり損切るべきなのである。

過去も現在も、相場で大損して身を滅ぼした相場師や金融機関の例は枚挙に暇がない。損切りルールも必ず設定されるとは限らないし、設定されていても運用するうえで想定外の問題を生じ、評価損の膨張を招くことがあり得る。いずれにせよ、相場で致命傷を負うのは、損切りのタイミングを逸して損が大きくなりすぎた場合である。こうなると損を確定させることが怖くなり、悪いポジションを抱えたままになる。そして最後はにっちもさっちもいかなくなり、破産状態に陥ってしまうのだ。

今回のオリンピックについても、昨年3月に1年延期ではなく中止(返上)を決めていれば、今やめるよりも様々な意味でダメージは小さかったであろう。何よりも、政府と東京都はコロナ対策に持てるリソースを集中できたはず。日本のコロナ感染状況も今よりはずっとマシであったに違いない。

昨年3月の後も、損切りのチャンスは何度かあった。国内要因に着目すれば、年末年始と現在の二度にわたる緊急事態の宣言時や、今年に入ってオリンピック前に十分な量のワクチン接種を完了させられないことが誰の目にもはっきりした時点などだ。

もっと大きな節目と捉えるべきだったのは、昨年10月以降冬にかけて変異株による感染爆発が欧米を中心に見られた時や、今年3月以降にインドなどでやはり感染爆発が起きた時である。こうしたタイミングで「各国の状況を見ればオリンピックの開催どころではない」とIOCにオリンピック返上を申し入れなかったことは、まさに〈痛恨の極み〉であった。このタイミングであれば、強欲なIOCやオリンピックに群がる関連企業群に対しても交渉上かなり有利に立てたと思われる。

政府も東京都も損切りのタイミングをことごとく逃してきた。今オリンピックをやめることの経済的・政治的ダメージはオリンピックを推進してきた当事者にとって耐えられないほど大きい。だから今も、オリンピックの開催に向かって猪突猛進しているのだ。

 

おわりに~最後のチャンス

オリンピックは「スポーツの祭典」とか「平和の祭典」と言われてきた。しかし、新型コロナというパンデミックが世界中に蔓延している中で行うオリンピックは、「祭典」よりも「危機管理」と捉えなければならない。「オリンピックを開催してもコロナ被害は封じ込められる」という根拠のない希望的観測にしがみつき、中止(返上)の決断を下せないのは愚の骨頂である。

「損切り」という行為の目的は、将来的な損失の拡大という不確実なリスクを遮断することだ。オリンピックを返上すれば、オリンピックに伴う海外からの人流によってコロナ感染が拡大するリスクはなくせる。政府、東京都、医療機関はワクチン接種やコロナ対策にもっと集中的に取り組むことができるようになる。それこそが損切りの成果だ。

オリンピックの中止を決断した後で今夏に国内のコロナ感染状況が改善したとしても、あるいは今から10年後に「あの時、頑張ってオリンピックを開催しておけばよかった」と後悔することになったとしても今行う損切りの判断が間違っていたことにはならない我々が本当に恐れるべきは「あの時、オリンピックを無理やり開催したばっかりに、多くの国民の命を危機にさらし、日本経済も滅茶苦茶にしてしまった」という後悔ではないのか。

政府と東京都は今からでもよいからオリンピックの開催を返上すべきだ。そして、6月11~13日のコーンウォール・サミットでG7メンバー及び今回特別にサミットに招待される韓国、豪州、インドから支持をとりつけ、共同声明に明記させたい。並行して、北京オリンピックの成功に全力で協力することを申し出て、中国の支持と理解をとりつける。他の国々に対しても外交当局は大車輪で同様のことを行う。このようにして国際世論を味方につけ、IOCやオリンピック関連企業との間で想定される交渉や法廷闘争に臨むのである。

コロナ禍と米中対立激化への対応で各国が手一杯な中、オリンピックが国政の最重要課題の一つになっている国は、世界中を見回してみても日本くらいなものだ。国運を左右するわけでもないオリンピックの開催にかまけ、二正面作戦どころか三正面作戦を余儀なくされた挙句、全部中途半端に終わっているのが日本の現実である。頼むから正気を取り戻してもらいたい。

 

[i] WHO Coronavirus (COVID-19) Dashboard | WHO Coronavirus (COVID-19) Dashboard With Vaccination Data

[ii] 検査数が増えれば(表面化する)感染者数も増えることは周知の事実である。一方で、厚生労働省は今年1月22日、それまで40~45だったPCR検査で陽性と判定される基準値(Ct値)を30~35へと〈静かに〉引き下げた。Ctが下がると陽性判定はより出にくくなる。この点を考慮すると、現在の日本の感染者数(5月14日時点で6,266人)が過去のピーク(今年1月8日の7,957人)よりも少ない言い切ることはできない。

[iii] 東京五輪「中止」59%、「開催」39%…読売世論調査 : 世論調査 : 選挙・世論調査 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)  他の報道機関の調査は、開催、延期、中止の三分法で質問することが多いのに対して、読売の調査は回答の選択肢に「延期する」という項目を設けなかった。延期という現実性のない選択肢を除外し、開催(観客数を制限した開催と無観客の開催という選択肢を提示)すべきか中止すべきかを二分法的に問うたことは評価できる。

[iv] キャンペーン · 人々の命と暮らしを守るために、東京五輪の開催中止を求めます Cancel the Tokyo Olympics to protect our lives · Change.org

[v] 【産経・FNN合同世論調査】内閣支持率急落43・0%、コロナ対策「評価せず」69・5% – 産経ニュース (sankei.com)

[vi] 米紙「日本政府は損切りし、IOCには『略奪するつもりならよそでやれ』と言うべきだ」 | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)

[vii] 参考値として紹介しておくと、当初5月11日が期限だった東京都・大阪府・兵庫県・京都府に対する緊急事態宣言を20日間延長し、愛知県と福岡県を新たに加えた場合の経済損失を野村総研は1兆620億円と見積もった。予想通りの緊急事態宣言延長と経済損失 | 2021年 | 木内登英のGlobal Economy & Policy Insight | 野村総合研究所(NRI) 経済よりももオリンピック開催を優先べきだと言う愚かな閣僚については 緊急事態宣言延長の公算 菅政権、五輪照準に抑え込み:イザ! (iza.ne.jp) に拠った。

[viii] 入国後の待機で違反、1日最大300人…自主隔離場所から離れる・位置情報報告せず : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

[ix] この表現を以って、「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」とツイートした高橋洋一嘉悦大教授と同列に受け止められては心外である。安倍内閣で内閣参事官等を務め、菅政権下でも内閣官房参与となった高橋は、何かと政権寄りの情報発信が目立つ。今回も高橋は日本よりもコロナ感染状況の悪い外国の例を紹介することによって「日本は良い方だ(だから政府が推進しているオリンピックを中止する議論はおかしい)」と思わせる情報を拡散しようとしたのであろう。だが、高橋の議論は一面的・恣意的な「政権のためにする議論」にすぎない。例えば、シンガポールは5月16日における人口10万人当たりの新規感染者数が31人――同日の日本の数字は536人――だが、経路不明の感染が増えていることに危機感を示し、店内飲食の禁止、従来5名までだった社交的集まりの規模を2名までに縮小するなど、日本よりも遥かにきびしい規制を導入した。世界からシンガポール政府の対応を笑う声が出ただろうか? 参考:「新型コロナウイルスに関する注意喚起(その47)」100190129.pdf (emb-japan.go.jp)

[x] 客観的検証を行い、オリンピック・パラリンピックの再延期を求める | 新・国民民主党 – つくろう、新しい答え。 (new-kokumin.jp)

[xi] あまりに小さな政党のことは調べていないが、今現在オリンピックの中止を明確に訴えているのは都議選の公約でオリンピック中止を訴えると言う共産党くらいである。その共産党ですら、今年1月時点の衆院代表質問で志位和夫委員長が求めたのは「ゼロベースから開催の是非を再検討」することまでであった。

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