東アジア共同体研究所

立憲民主党に送る「辛口のエール」  【Alternative Viewpoint 第32号】

2021年11月12日

 

はじめに

去る10月31日に投開票が行われた総選挙の結果、野党第一党の立憲民主党は議席を減らし、枝野幸男代表は代表を辞することになった。今回は〈自民党にお灸をすえる〉選挙になると思っていたが、菅から岸田への「看板のすげ替え」でまんまとかわされた格好だ。[1]

日本の政治は選挙による政権交代が繰り返されて良くなる、というのが私の信念。立憲民主党が形ばかりの野党第一党にとどまらず、真に自民党に対抗しうる存在となってくれれば、現段階ではそれが政権交代への一番の近道だ。最近注目を集める日本維新の会には自民党の補完勢力となる疑いが拭えず、その政策と体質にも共感できない。本稿で敢えて立憲に辛口のエールを送る所以である。

 

問題の核心=「立憲に魅力がない」こと

今回の選挙の開票前に「共産党を含む野党共闘によって自民党との『1対1』の構図ができ、接戦区が増えた」とシタリ顔で解説していたマスコミは、選挙結果が出るや、「立憲が負けたのは共産党と共闘したから」とまたもやシタリ顔で述べている。だが、この議論も今のところは印象論の域を出ない。[2]  連合の芳野友子会長は立憲が共産と共闘したことを激しく批判し、「連合の組合員の票が行き場を失った」と述べている。支持政党の足を散々引っ張っておいてよく言ったものだ。しかし、立憲が共産党と共闘せずに総選挙に臨んでいれば、連合の構成員を含め、多くの有権者が喜んで立憲の候補に投票し、立憲の候補者が大挙当選していただろうか? それがありえない話であることは、誰にだってわかる。[3]

今回の選挙の前までは、補欠選挙や地方の首長選挙などで共産党を含む野党共闘の成果で与党候補の敗北が続いていた。歴史にイフはないが、今回の総選挙で立憲の戦う相手が菅・自民党であったなら、共産と選挙共闘した立憲は文字通り躍進していたかもしれない。逆に、相手が河野・自民党であったなら、10月31日の開票結果以上に大敗していた可能性もある。また、コロナの感染状況が収まっていない中で選挙を迎えていれば、政権批判票が増えて自公過半数割れという事態さえあり得ただろう。その意味では、立憲と共産は賭けに出て、それに敗れたということ。

立憲の敗因として確実に言えるのは、〈今の立憲民主党は有権者にとって魅力に乏しい〉という冷徹な現実である。立憲にもっと魅力があれば、「立憲共産党」などとネガキャンを張られても、代表が辞任するような事態にはならなかったはずだ。そもそも論になるが、立憲にもう少し人気があれば、ここまで共産党と大々的な選挙共闘を行う必要もなかった。これこそが問題の核心であり、だからこそ、立憲にとって事態はより一層深刻なのである。

立憲民主党に魅力がないことは、その支持率に如実に反映している。立憲があくまで政権交代を目指すと言うなら、自民党批判の受け皿として少なくとも野党の中では圧倒的なトップでなければならない。ところが、選挙後の11月1・2日に共同通信が実施した世論調査では、維新の支持率が10月上旬の5.0%から14.4%に急伸し、立憲の11.2%を抜いた。(自民は45.7%であった。)この傾向が今後も続けば、立憲にとって存亡の危機と言っても過言ではない。

立憲が国民にアピールしない理由は、党及び支持組織の弱体化日常的な運動量の不足、自由と言えば聞こえはよいが仲良しクラブ的で規律に欠ける体質など、いくつもの要素が複雑に絡み合っている。以下では政策に焦点を絞り、「立憲に魅力がない理由」を指摘してみたい。立憲の前身政党で政策立案に関わっていた私が立憲の政策について批判がましいことを言うのは、決して褒められたことではないだろう。そのことは百も承知のうえで、立憲の政策に注文をつける。

 

色あせた政策

本稿を書くに当たって、立憲の衆院選公約に目を通してみた。その感想を率直に言えば、良い悪い、好き嫌いという前に、何が言いたいのかよくわからなかった支持率が低いから八方美人になり、何事も言い切らない何を主張しているのかわからないから、支持率はもっと下がる。下野後の民主党系政党が陥った悪循環が今も続いているようだ。

2009年に政権交代する前の民主党は、批判されてももっと堂々と政策を主張していた。明確な主張を打ち出せば、どんな政策であろうと批判が出てくる党内にも不協和音が必ず出てくるのは当然だ。それでも1996年の結党直後には、鳩山、菅、横路、前原等の面々が北海道で合宿を行って「駐留なき安保」について激論を交わし、党としてのラインをまとめた。「コンクリートから人へ」などと打ち上げては業界から猛抗議を受け、それでも〈向こう傷は問わない〉とばかりに主張を変えなかった。ところが2012年以降は、激しい民主党政権批判と党勢の退潮に怖れをなし、この党は批判されることを極端に恐れるようになる。その結果、政策は「様々な意見を足しあげる」ことによって決まり、どんどん丸まっていった。「民主党の政策が見えない」と言われたのも当然だった。今、立憲民主党の政策もまた、見えない

経済政策~夢も希望もない≫

政策の各論はどうか? 私の印象では、選挙公約の根幹となるべき経済政策と安全保障政策が特に魅力に欠ける。

立憲の経済政策のイメージは暗く、弱い。立憲の経済政策のタイトルが「『1億総中流社会』の復活」となっていたのを見たときは、思わずため息が出た。めざすのが「中流」だという夢のなさ。「復活」という言葉が若者たちに与えるであろう守旧的な印象。選挙における経済政策は(嘘でもいいから)将来の明るい経済像を示すべきだ。アベノミクスなんかは、嘘だらけだったが国民に夢を売った。夢すら見させくてくれない政策は選挙公約としては落第である。

経済政策のターゲットがいわゆる「弱者」に偏って見えるのも立憲の弱点である。本音の部分で自分のことを弱者とみなしている人は日本にどれだけいるのか? しかも、弱者に対しては、共産、社民、公明もこぞって手を差し伸べている。自民党ですら、分配政策の重要性を口にする時代だ。弱者+α(中間層)のαの部分に訴える政策が下野後の民主党系政党は伝統的に弱い。これでは〈政策による中間層票の掘り起こし〉は期待できない。

立憲の経済政策の目玉は「所得税及び消費税の減税」だった。[4]  今の日本では減税しても消費に回りきらないため、経済浮揚効果・雇用創出効果は限られると思うが、まあそれは〈趣味の問題〉かもしれない。見過ごせないのは、法人税増税の示唆を含め、アンチ・ビジネスの雰囲気が今も健在であること。もちろん、自公政権の経済政策も大した経済成長をもたらすものではない。だが、立憲の経済政策から「成長のエンジン」はもっと見えてこない。弱者であろうと誰であろうと、多くの有権者はサラリーマン(ウーマン)であり、勤め先が儲からないと給料は上がらない。その意味では、どうせ国債発行に頼るのであれば、減税よりも「新しい公共事業」とでも銘打ち、財政出動を強調した方が経済政策らしく見えただろう。立憲の議員たちには、民主党政権以来の公共事業アレルギーがあるのかもしれない。だが、例えば老朽化した道路や水道管の補修・交換など、誰もバラマキとは呼ばない分野はいくらでもある。米国のようにそれをデジタル・インフラと絡めてもよかった。

消費税や所得税を下げれば庶民は喜んで自分たちに投票するだろう、という思惑も空回りした。買い控え云々の議論もさることながら、普通の有権者なら「社会保障は大丈夫なのか」と心配になるのが当然だ。枝野さんは元来、バラマキ減税には消極的だったはず。支持率の上がらない中で消費税減税を求める候補者の圧力にさらされ、野党共闘を組むうえで共産やれいわの政策に歩み寄る必要があったのだと拝察する。それにしても、〈安っぽい〉経済政策になったものだ。

安全保障政策~傍観するだけなのか?≫

世論調査を見ると、選挙の際に外交安全保障を見て政党を選ぶ有権者は必ずしも多くない。だが、立憲の外交安保政策はあまりにも曖昧模糊としており、多くの国民から二重の意味でソッポを向かれてしまう。第一に、米中対立が激化し、朝鮮半島情勢も不透明な今日、「何を言っているのかわからない外交安保政策しか持たない政党に政権は任せられない」と国民は不安を抱く。第二に、安全保障政策こそは旧民主党系の政党が「寄り合い所帯」「決められない政党」と批判されるときの象徴であり、曖昧模糊とした安保政策はそのまま立憲内部のガバナンスに対する不安を惹起させる。立憲が政権政党としての資格を有権者にアピールしたければ、もう少しハードな安保政策を掲げ、同時に対中などで大胆かつ柔軟な外交政策を掲げてバランスをとった方がよい。

例えば、立憲の公約には「専守防衛に徹しつつ、領土・領海・領海を守る」と書いてある。それは結構なのだが、「どうやって?」という部分がはっきりしない。現行の安保法制については、「立憲主義および憲法の平和主義に基づき、違憲部分を廃止する等、必要な措置を講じ」ると言うのだが、これが何を意味するのかさっぱりわからない。2015年に成立した安保法制を全部廃止するのだと受け止める人もいるだろうが、「違憲部分を廃止する」と言っている以上、そうではあるまい。せめて違憲部分の代表的なものくらい例示してくれれば、少しはイメージが湧くのだが、それもない。民進党の時は、多くの議員が違憲部分とは安倍が認めさせた集団的自衛権のことを指すと思っていたが、集団的自衛権を認めるべきだと考える少数の議員が反発してまとまらなかったため、明示しないことになった記憶がある。だが仮に「違憲部分=集団的自衛権」だとしても、台湾有事や北朝鮮有事において集団的自衛権を認めないでいかに日本を守るつもりなのか、基本的な考え方だけでも示さなければ無責任だ。

希望の党にいた人はいざしらず、立憲創設時からの議員や支持者たちは、今さら集団的自衛権を容認することはおそらくできまい。だが、「台湾有事と北朝鮮有事は個別的自衛権でしっかり対応する。安保法制については、個別的自衛権の行使によって自衛隊を適切に運用できるよう必要な改正を行う」というくらいは、政策として明示すべきではないか。万一台湾有事が起きて米軍が参戦する場合は、在日米軍基地が中国軍のミサイル等の攻撃対象となるため、個別的自衛権で事足りる。[5]  北朝鮮有事の場合はもう少し複雑だが、いずれにしても、北朝鮮が在日米軍基地を攻撃するような事態(=個別的自衛権の行使が容認される事態)でなければ、日本が武力行使できなくても国家の存続に影響するほどのことではない。[6]   私が想像するには、個別的自衛権の明確化についても立憲の中には少なからぬ抵抗があると思う。だが、集団的自衛権もダメ、個別的自衛権の柔軟解釈もダメ、憲法改正もダメ、と言うのなら、政権交代を口にすべきではない時代も安全保障環境も変わっている政策も進化しなければ話にならない

ついでに言うと、個別的自衛権の明確化を言い切ることができれば、憲法改正に前のめりになる必要はない。自民の4項目(自衛隊の明記、緊急事態対応、合区解消・地方公共団体、教育充実)にせよ、維新の主張する「教育無償化、統治機構改革、憲法裁判所」にせよ、どうしても憲法改正しなければ困るような代物ではない。ただし、「現行9条の下で自衛隊が合憲であることに疑いはない。自衛隊が合憲でないかのように言っているのは安倍晋三だけである」と折に触れて攻める必要はある。

 

おわりに

2017年10月に枝野が立憲民主党を立ち上げ、直後に行われた衆議院選挙で躍進を果たした時、立憲は「リベラルのコアを固めて真ん中を獲りに行く戦略」なのだと私は思った。それは2009年の政権陥落時に「右のコアを固めて真ん中を獲りに行った」自民党の戦略に呼応するものであり、理に適った戦略に見えた。しかし、自民党にとって右のコアは〈岩盤支持層〉となった一方で、立憲にリベラル・コアができることはなかった。リベラル系の支持者にしてみれば、右の「希望の党」に行った議員と立憲が合流したことは、理解できない出来事だったに違いない。2017年当時、枝野に期待した学生たちの熱量も失われていったように見える。また、日本のリベラル層は保守層よりも少数であるうえ、共産党、社民党、れいわ新選組など、競合相手が多いという問題もあった。

加えて日本では、右からセンターへウイングを広げるのに比べて、リベラルからセンターへウイングを広げることには、資金的にも政策的にもハンディキャップが伴う。正確に数えたことはないが、右派的な財界人はいくらでも挙げられる一方、リベラルな財界人は数えるほどしかいない。政策面では、今日の安全保障環境を前提にした時、リベラル政党とその支持者が軍事力の意義をせめてもう少し認めるようにならなければ、センターへ支持を広げると言っても限界がある。日本の伝統的リベラルには〈軍事力に対する忌避感〉が極端に強い。だが、米国の民主党、英国の労働党、ドイツの社会民主党や緑の党を含め、日本以外のリベラル政党は(決して好戦的ではないが)軍事力を行使しなければいけないときは躊躇なく行使する。少なくとも、日本のリベラル政党のように軍事力の行使について議論することにさえ眉をひそめるようなことはない。リベラル政党として安全保障政策面で脱皮を遂げるつもりがないのであれば、立憲は「今後は自公政権をチェックする役割に特化する」と宣言した方がまだ正直でよい。[7]

軍事偏向を戒めつつ、軍事力の意義と必要性はしっかり認める。単純な従米・反中路線に陥ることなく、積極的かつ柔軟な外交を展開する。日本の国益と地域の安定を守る。そして自公に取って代わる気概と能力を持つ――。そんな政党がこの国に一つくらいはあってほしい。これから選ばれる新代表の下、立憲民主党がどこへ行くのか、私なりに見守って(見極めて)いきたい。

 

 

※   最初に述べたとおり、本稿は政権交代を実現しうるリベラル政党が生き残ることを願う観点から私の個人的な考えを綴ったものである。私は1996年の旧民主党(いわゆる「鳩菅民主党」)創設時に事務局として同党に加わり、昨年(2020年)3月までその後継政党で働いていた。民主党は2012年12月に下野した後、民進党、国民民主党と名前を変え、2020年9月に解党した。現在の私は立憲民主党または国民民主党に対して「古巣」という意識を持っていないし、いずれかの党の党員でもない。

 

 

[1] 今回の選挙は衆議院選挙である以上、建前上は「政権選択」選挙であった。自公は選挙戦術上、「立憲共産党」政権誕生の危機を煽り、選挙後の「閣外協力」に浮かれた共産党も政権選択選挙であることを前面に打ち出した。しかし、参議院で現在の野党勢力が過半数にまったく届かないという現実がある以上、支持率も低空飛行のまま、奇跡が起きて衆議院選に勝利しても、立憲中心の政権運営など絵に描いた餅だ。枝野は政権交代の可能性について「大谷選手の打率(=2割5分程度)」くらいだと述べていたが、それは精一杯の強がりに聞こえた。そして、国民は枝野以上に醒めていた。戦後3番目に低い55.93%という投票率は、有権者の多くが今回の選挙を政権選択選挙と認識していなかったことを示唆している。

[2] 例えば、「共産党との共闘によって増えた票よりも、それによって失われた票の方が多かった」という見方についても、数字による裏付けはない。読売新聞・日本テレビの出口調査は、共産党支持層の大半が立憲民主党の候補を支援したことを確認している。一方で、同出口調査では、立民支持層から共産候補への支援は限定的なものにとどまったと言う。立民と共産の協力に温度差、出口調査分析…無党派層は維新支持増える : 衆院選 : 選挙・世論調査 : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

また、産経新聞は「同じ野党でも、共産との連携から距離を置いた国民民主党や維新は議席数を伸ばした」ことから、最大の敗因が共産党との選挙協力にあったことは「一目瞭然」だと述べている。だが、維新は吉村大阪府知事というスターと橋下徹という事実上の応援団を擁し、勢いもあった。国民民主の衆議院議員にはもともと小選挙区で勝てる「選挙に強い」人が多い。しかも、産経は野党共闘に加わったれいわ新選組の獲得議席が3倍増となった事実を無視しており、いつもの牽強付会ぶりである。

[3] かつて、連合構成員の中で民主党に投票する人の比率は、日本全体で民主党に投票する有権者の比率と同じだと言われた。それは今も変わらないと思ってよかろう。

[4] 低所得者に対する給付金は与野党相打ちの形である。自民党の公約に給付金の文字はないが、岸田の所信表明演説には子育て世帯や非正規労働者に対する給付金の支給が触れられていた。

[5] ある政府関係者は「台湾有事で集団的自衛権と言うのはせいぜい5分です」と真顔で述べた。なお、米軍が直接参戦しない台湾有事については、日本が(集団的)自衛権を発動する心配は無用である。

[6] 厳密に言うと、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、現在の日本政府(内閣法制局)の9条解釈の下で認められる自衛権の行使は、他国よりもずっと制約が多い。それを解釈変更で切り抜けるか、憲法の明文改正まで行くかは、将来的な課題として残る。

[7] 私自身は、立憲民主党が成立した経緯や政策から見て、自分の中では同党をセンター・レフトの政党とみなし、リベラル政党に分類している。ただし、この見方に同意しない人がいるであろうことは百も承知だ。枝野代表でさえ、時には自らを保守と呼ぶことがあった。立憲民主党の所属議員や支持者の中には、同党をリベラル政党とみなしたくない人も少なくないと思われる。それならそれで、私はかまわない。リベラル政党と呼ぼうが、中道政党と呼ぼうが、はたまた保守政党と呼ぼうが、立憲に魅力がないという根本的な問題はいささかも解決しない。立憲が問われているのは、この根本的な問題に本気で取り組む気概があるのか否かである。

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