東アジア共同体研究所

コロナ起源論争、決着せず~「フェイク・ニュースもどき」の繁殖能力  Alternative Viewpoint 第29号

2021年9月30日

 

はじめに 

今日、コロナ起源に関する有力な考え方は「自然界の動物との接触を通じてウイルス(SARS-CoV-2)が人間界に広まった」という説(以下、自然界起源説)と「ウイルスが中国の武漢ウイルス研究所から流出した」という説(以下、研究所流出説)の二つに収斂してきている。[1] コロナ禍が発生した当初、多くの人は自然界起源説の方を信じ、大概のメディアも研究所流出説をフェイク扱いしていた。今は違う。少なくとも欧米諸国では研究所流出説を信じる人の方が自然界起源説を信じる人よりも遥かに多い。大手メディアも両説を並べて取り扱うようになった。こうした〈逆転〉の理由が「研究所流出説を裏付ける科学的な証拠が出てきたため」というのであれば、別に構わない。しかし、科学者たちの大勢は今も自然界起源説を支持している。科学者たちが支持したがらない研究所流出説が一般国民の間で広範に支持されているのは何故なのか?

コロナ起源論争において、自然界起源説を主張してきたのは主に科学者たちだ。彼らの目的は〈科学的に真実をつきとめる〉こと。事実関係と論理の妥当性から自然界起源説を主張し、わからないことはわからないと正直に伝えてきた。これに対し、研究所流出説を言い出した人たちの目的は〈研究所流出説を広める〉ことそのもの。事実とフェイクを混ぜこぜにし、「情報の受け手」の心理に働きかけてきた。自然界起源説の方に決定的証拠(=ウイルスを媒介した動物が特定される)が出ない限り、普通の人々の間で研究所流出説の方が支持されるようになったのは半ば必然である。AVP本号では、研究所流出説が〈大躍進〉したカラクリに迫ってみたい。[2]

研究所流出説に広がる支持

最初は現状認識から。コロナ起源について欧米の世論がどう思っているのかを見ておこう。[3]

昨年(2020年)3月10日~16日にかけて、ピュー・リサーチ研究所は世論調査を行い、「コロナウイルスはどこから来たと思うか?」と質問した。米国民の43%は「自然発生した」と答えた一方、29%は「(中国の)研究所で作られた」と回答した。[4] 党派別に見ると、民主党支持者の52%は自然界起源説、21%は研究所流出説を支持した。共和党支持者の間では、自然界起源説と研究所流出説は共に37%で拮抗していた。

2020年5月3日~5日、調査・データ分析を手がけるYouGov社がエコノミスト誌と合同で調査を行い、「新型コロナの発生に責任があるのは中国の研究所だという説は正しいか、それとも間違っているか?」と質問した。「正しい」と答えた人は全体の49%に達し、「間違っている」と答えた人の28%を凌駕した。民主党員の間では「正しい」と答えた者(33%)よりも「間違い」と答えた者(44%)の方が多かった。共和党員の間では「正しい」と答えた者(72%)が「間違い」と答えた者(15%)を圧倒した。[5] 報道では、欧米の世論が研究所流出説の支持に傾いたのは今年に入ってからだという解説が多く見られる。しかし、研究所流出説は昨年のかなり早い段階から米国の草の根レベルに浸透していた可能性がある。(この調査だけは質問の仕方が違うため、断定はできない。)

2021年6月22日~27日、政治メディアのPOLITICOとハーバード大学が共同で調査を行い、コロナの起源について質問した。ウイルスが中国の研究所から漏れたと考える米国民は52%と半数を超えた。宿主の動物と人間の接触によると答えた米国民は28%に過ぎなかった。共和党員の間では研究所流出説が59%、自然界起源説が23%だった。民主党員の間でも研究所流出説が52%、自然界起源説が34%となっていたことが注目を集めた。[6]

研究所流出説が一般国民の間で広く信じられているのは米国だけの話ではない。今年6月10日~17日、調査会社のモーニング・コンサルトは欧米諸国等で調査を行い、「コロナウイルスは武漢にある研究所から漏れた後で感染が始まったと考えるか、それとも動物から人間へ自然に転移した後で感染が始まったと考えるか」と訊いた。
「研究所流出説、自然界起源説」の順でその結果を示すと、イタリア「59%、23%」、スペイン「58%、23%」、フランス「56%、15%」、豪州「51%、28%」、米国「46%、26%」、英国「46%、33%」、ドイツ「43%、39%」、オランダ「28%、43%」であった。[7] なお、日本の世論調査もいろいろ探してみたが、見つからなかった。

研究所流出説を示唆する新情報

2021年3月30日、世界保健機関(WHO)新型コロナウイルスの起源に関する調査報告書を公表した。[8] 自然界起源説のうち、「中間宿主動物を経てヒトに感染した」とする仮説は「可能性が高い~非常に高い」「最初の宿主動物からヒトに直接感染した」とする仮説は「可能性がある~可能性が高い」研究所流出説は「極めて可能性は低い」という評価だった。しかし、中国からの情報提供が不十分だったことなどが指摘され、自然界起源説が有利になることはなかった。それどころか、今年に入ると研究所流出説を勢いづかせる〈新情報〉が次々に出てきた。以下にいくつか例をあげる。[9]

  • 2012年に雲南省にある銅山で6人の作業員が肺炎になり、うち3人が死亡していた。武漢研究所の石正麗(シー・ジェンリー)博士はその死因を〈カビ〉によるものだと述べていた。だが、新型コロナウイルスに類似した蝙蝠由来のウイルス(RaTG13)を原因と疑う論文が書かれていた。
  • 英国人動物学者のピーター・ダザックは「武漢ウイルス研究所では新型コロナウイルスに類似したウイルスを一切培養していなかった」と述べていた。しかし、同研究所の助成金申請記録から、複数の異なるウイルスの一部を再結合させたりするプロジェクト等が進められていたことが判明した。[10]
  • ダザックは「武漢研究所に生きた蝙蝠は絶対にいない」と述べていた。ところが今年6月、研究所内で飼われている蝙蝠の動画がネットに流出した。[11]
  • 今年5月23日、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は「武漢研究所に所属する3人の研究員が2019年11月に、病院での治療が必要になるほどの体調不良を訴えていた」と報じた。[12]

科学者の大勢は今も自然界起源説を支持

このような〈新情報〉を受け、メインストリームの科学者の中にも研究所流出説を支持する人が出てきた。しかし、ウイルス関係の専門家の間では自然界起源説を支持する人の方が現在も圧倒的に多い。今年9月2日付の学術雑誌『サイエンス』に載った解説記事を以下に引用する。[13]

  • 最近書かれた学術論文の多くは、(ゲノム研究に基づいて)「ウイルスが動物から人間へ〈感染のジャンプ〉を起こした可能性が高い」という見解を表明している。
  • 昨年武漢で新型コロナが感染拡大した際に検査を行ったところ、研究所のスタッフ・学生の全員が陰性だった。
  • 武漢で起きた初期のクラスターは動物を扱う複数の市場で同時に起きており、新型コロナに感染した動物または動物商人がウイルスを市内に持ち込んだことが強く示唆される。
  • 2012年に雲南省の銅鉱山で病気が起きた時、石博士は作業員たちを検査したがコロナウイルスや抗体を発見できなかった。人体からコロナウイルスを発見していれば、世紀の大発見であり、科学者なら秘密にしておくことは絶対にない。また、コロナウイルスを疑った〈新発見〉の文献は大学院生の書いた修士論文にすぎない。
  • 新型コロナウイルスが実験室で合成されたのであれば、それに十分近い「出発点となる素材」がなくてはならない。しかし、既知のウイルスにそのようなものは存在しない。新型コロナウイルスと96%も共通の構造を持つRaTG13でさえ、出発点とするには違いが大きすぎる。
  • 武漢研究所で飼われていた蝙蝠はキクガシラ蝙蝠(SARS関連のコロナウイルスを宿すことが知られている唯一の蝙蝠)ではない。
  • ウォール・ストリート・ジャーナルが伝えた「2019年の秋に研究所員が病気になった」という話は詳細や根拠がまったく明らかにされていない。[14]

正直に言うと、前節で紹介したような〈新情報〉に接した時、私は「研究所流出説もあり得るな」と思った。だが、『サイエンス』誌の反論を含めて両者の議論を比較してみたところ、「研究所流出説を信じる理由はやっぱりない」と思い直した。今年8月27日、米国政府の諜報機関コミュニティはコロナ起源に関する報告書をバイデン大統領に提出した。その報告書の中でも、5つの諜報機関が「最初のコロナ感染は人間のコロナウイルスと99%以上同一のウイルスを宿した動物との自然接触によって起きた可能性が高い」と考えているのに対し、「コロナウイルスが武漢ウイルス研究所での事故(おそらくは実験、動物の取り扱い、サンプル採取)を通して人へ最初に感染した」と考える諜報機関は1つだけだった。[15]

研究所流出説の伝道者たち 

科学者の多数派が自然界起源説をいくら推しても、欧米の一般国民の多くは研究所流出説を信じている。その理由を探るため、「研究所流出説を広めてきた中心的人物はどのような人たちなのか?」に注目してみたい。ズバリ言えば、米国の急進右翼(radical right)やトランプ主義者のことだ。

コロナ感染が発生して間もない2020年2月以降トム・コットン上院議員(アーカンソー州選出、共和党)は保守系メディアのFoxニュースやTwitterなどを通じ、研究所流出説の様々なバリエーション(中国による生物兵器説を含む)に言及した。[16] 大手メディアの多くは「事実ではない」と冷淡だったが、研究所流出説は右翼系のメディアやSNSによって瞬く間に拡散された。

新型コロナウイルスを「武漢(中国)ウイルス」と呼んだドナルド・トランプ大統領も研究所流出説を強く疑った。2020年4月30日には、その証拠を見たのかと問われて「その通りだ」と回答した。[17] 5月3日には「(研究所流出説を証明する)強力な報告書が出る」とも述べた。同じ頃、マイク・ポンペオ国務長官も研究所流出説には「多数の証拠がある」と述べていた。[18] (両人の述べた報告書や証拠は今に至るまで提示されていない。[19] )

急進右翼と言えば、スティーブ・バノンを忘れてはなるまい。トランプ政権で大統領上級顧問を務めた後、詐欺罪の疑いで逮捕されたり、政府高官を斬首しろと投稿してツィッターのアカウントを永久凍結されたりした〈札付きの〉の人物である。[20] ニューヨーク・タイムズ紙の検証記事によれば、バノンは郭文貴(グオ・ウエングイ)という中国人富豪と組んで研究所流出説の拡散を仕掛けたことがわかっている。[21] 彼らが利用したのは香港大学公衆衛生学院に勤務していた閻麗夢(ヤン・リメン)。昨年1月に武漢で新型コロナの感染爆発が始まると、彼女は中国共産党政府が武漢の研究所で意図的にコロナを開発したという噂を聞き、それを信じ込んでいた。[22]

2020年4月28日、閻はファーストクラスで米国に渡り、ニューヨーク郊外にかくまわれた。バノンと郭は弁護士やメディア・トレーナーを雇い、閻に〈振付け〉を施した。閻は「バノンや郭とのつながりをメディアで喋ってはいけない」と指示された。
2020年7月、閻はFOXニュースのウェブ版に登場し、中国政府は新型ウイルスが人から人へ(人為的に)うつった事実を隠蔽している、と述べた。[23]
同年9月、閻はFOXの人気番組「タッカー・カールソン・トゥナイト」に出演し、「新型コロナウイルスは(武漢ウイルス)研究所で作られた」「ウイルスは(事故ではなく)意図的に広められた」と明言した。[24] 閻の発言はオンラインで少なくとも880万回以上閲覧された。
番組出演に合わせ、閻は自説をまとめた論文を発表した。内容は査読を経ておらず、米国のウイルス学者たちが「推測に基づいたニセ科学」と眉をひそめるものだった。そんなことにはお構いなく、論文はSNS上で大いに拡散した。

ポンペオやコットンはトランプの応援団だ。トランプには、新型コロナへの初期対応を誤って米国内で悲惨なまでの感染急拡大を招いた責任を中国に転嫁する意図が明確にあった。バノンも基本的にはトランプを支持している。だが彼の究極の狙いは、「インフォデミック(infodemic)――虚偽または不確かな情報(information)が伝染病(epidemic)のように広がること――を現出させ、米国社会を不安定化させる」ことだと思われる。亡命者である郭文貴が中国共産党批判に執念を燃やしていることは言うまでもない。背景や意図に違いはあっても、こうした一群の急進右翼/トランプ主義者たちが研究所流出説の背後にいたことは紛れもない事実だ。

急進右翼の手口と心理学

前節で見た急進右翼/トランプ主義者たちが研究所流出説を拡散させたやり方には共通のパターンがある。それらは荒っぽく、いい加減に見えるかもしれない。だが、よくよく調べてみると、巧妙にできているばかりか、心理学や社会学の理論にも適っている。CNNのオリバー・ダーシーの解説等を参考にして彼らのやり方を紹介し、併せてそれが持つ心理学上の効果を説明する。[25]

① 拡散を仕掛ける人物(トランプやコットンなど)がTwitterやFacebookなどのSNS、あるいはFoxニュースなど保守系のテレビ出演などを通じて研究所流出説を紹介する。必ずしも断言する必要はなく、ほのめかすだけでもよい。「新型コロナウイルスは中国の生物兵器である」という説を含め、根拠がなくても問題ない

※ 心理学の新奇性仮説は「人間の注意は奇抜なもの、新しく予期しなかったものに引き付けられる」という議論。マサチューセッツ工科大学教授のシナン・アラルはTwitterで11年分のtweetを分析し、「間違ったニュースの方が真実よりも多くの人に、早く、深く届く」ことを発見した。間違ったニュースの方が奇抜で受け手の感情的反応を呼び起こしやすいからだと考えられる。[26] もちろん、研究所流出説は十分に奇抜だ。

② 保守系メディアや急進右翼/トランプ主義者の人たちは一斉にSNSで――リツイートや「いいね!」などを通じて――研究所流出説を拡散させる。

※ オンライン上では、ユーザーがほぼ同じ意見を持った別のユーザーとの間で相互にやり取りを行う結果、元々持っていた意見が増強されやすい。「エコー・チャンバー(echo chamber)」と呼ばれる現象だ。[27] SNSは、人種、宗教、収入、政治信条などに基づいてエコー・チャンバーが作られることを促進する。そして、自分が属するエコー・チャンバー内でSNSを通じて共有される情報を無条件に信じ、拡散する傾向が強く見られる。[28] トランプやコットンたちが研究所流出説をほのめかしたのを受け、急進右翼やトランプ支持者たちは自分のエコー・チャンバーの中で研究所流出説を響かせまくった。その結果、〈仲間たち〉は研究所流出説をいとも簡単に信じ込み今度は彼らが研究所流出説を拡散するのだ。

※ 間違った情報に接した時、過去に蓄積した知識を使って間違いを即座に特定できないことが往々にして起こる。心理学で「知識の無視(knowledge neglect)」と呼ばれる現象である。「知識の無視」が起きた時、人間の脳は簡単な解決策を選ぼうとし、ネット情報の本文をよく読む前に〈人目を引くヘッドライン〉に同意してしまうことが多い。[29]

③ 拡散を仕掛ける人物は、自分に対する最低限の信頼性を担保し、反対派からの攻撃をかわすために〈逃げ道〉を用意しておく。例えば、トム・コットンは研究所流出説を散々煽ったうえで最後に「多分そんなことはないだろうけどね」と付け加えるのが得意だった。トランプも研究所流出説を強く示唆しながら、時々は「多くの見方がある」などと述べていた。

④ いろいろな人物が入れ替わり立ち代わり、以上を繰り返す。

※ 心理学で言う「錯覚による真実化効果(illusionary truth effect)」がここで働く。[30] 「錯覚による真実化」とは、情報の信憑性にかかわらず、繰り返し提示された情報は新しい情報よりも信じられやすい、という単純な話だ。最近の実験によれば、政治の世界におけるフェイク・ニュースに関しても当てはまることがわかっている。例えば、被験者のグループに「トランプ大統領はゲイの活動を促進するテレビ番組をすべて禁止することにした」という文を見せたところ、約5%が「正しい」と答えた。しばらく経ってから同じグループに同じ文を見せたら、「正しい」と答えた人は約10%に増えた。[31] 研究所流出説をSNS等で2回見た結果、「研究所流出説は正しい」と考える人が5%増えたら、米国全体では数百万人規模の人が半ば自動的に研究所流出説を信じるようになる計算だ。それが繰り返されれば、同説を信じる者はさらに増えよう。[32]

リベラル陣営への浸透

ここまで、急進右翼やトランプ主義者に研究所流出説が浸透していった〈仕掛け〉を解説した。だが、コロナの大惨禍は全米を覆って不安感を広め、近年は党派に関係なく米国民の間で中国に対する警戒感が高まっている。リベラル陣営や無党派層の人々であっても、トランプやバノンの〈仕掛け〉から影響を受ける素地は十分に存在すると考えてよい。本節ではリベラルな米国民にも研究所流出説が浸透していくメカニズムを概観する。

≪アルゴリズムが招く「錯覚による真実化」≫

ある米国民がコロナ起源に興味を持ち、ネットで記事を検索したとしよう。研究所流出説のタイトルは煽情的・刺激的なものが多いうえ、急進右翼たちが洪水のような量の情報をアップしている。彼(彼女)は自然界起源説ではなく研究所流出説について述べたサイトをクリックする可能性が高い。するとGoogleなどのプラットフォーマーの持つアルゴリズムは、彼(彼女)が研究所流出説に興味を持っている判断し、スマホやパソコンの画面上に「コロナは中国が作った生物兵器だ」という類いの別サイトを表示する。彼(彼女)は「本当かな?」と思いながら、それをクリックするかもしれない。アルゴリズムはまた別の研究所流出説や中国による陰謀論を展開するサイトを探し出し、以後何日にもわたって彼(彼女)の画面に浮かび上がらせる。こうして、リベラルな米国民の間にも「錯覚による真実化」の罠にはまる人々が出てくる。

≪科学者が発言を微修正≫

2020年4月にピュー・リサーチが行った調査によれば、共和党支持者で「医学者は大衆の利益のために行動している」と信じる者は27%にすぎない。ところが、民主党支持者の間では52%が医学者を信用していた。[33] 民主党支持者には〈科学者による、論理と事実に基づいた説明〉を重視する傾向があると考えてよい。

民主党支持者が信用する科学者たちは昨年、研究所流出説に極めて批判的だった。2020年2月、ピーター・ダザック(前出)らは権威ある医学雑誌『ランセット』に「研究所流出説は陰謀論」であるとの声明を出した。同年4月17日、米国立アレルギー感染症研究所(NIH)のアンソニー・ファウチ所長は、「ウイルスのゲノム研究によれば、ウイルスは研究所内で作られたのではなく、動物から人間に移ったことが強く示唆されている」と明言した。[34]

その後、急進右翼たちはダザックとファウチに対して「武漢ウイルス研究所と癒着している」と執拗に攻撃を加え、2人の信用を(少なくともある程度は)貶めることに成功した。[35] ある説を否定するためにその説を主張・支持する者を攻撃するのは、日本でもよく見られる情報戦術のひとつだ。

2021年5月17日、ウイルス学や進化生物学等の科学者18人が科学雑誌『サイエンス』に公開書簡を出した。彼らは、十分な科学的データが得られるまでは自然界起源説だけでなく、研究所流出説も含めた2つの仮説を真剣に検討すべきだと主張した。[36] 同じ頃、ファウチの発言にも〈揺らぎ〉が見られるようになった。例えば、「今も自然界起源説が最有力だと考えている」としつつも、「自然界起源説と研究所流出説の両方とも〈ありえる〉説明だ」「研究所から流出した可能性もないわけではない」などと付け加えている。[37] こうした発言が切り取られて伝わった結果、リベラルな人たちの間でも研究所流出説を信じる人が増えた可能性がある。

≪バイデンの再調査命令が与えた「お墨付き」≫

2021年5月26日、ジョー・バイデン大統領は、新型コロナウイルスの発生源については「動物から人間への感染」と「中国のウイルス研究所からの流出」の2つの可能性があるとしたうえで、追加調査して90日以内に報告するよう、米諜報コミュニティに指示した。[38] 今年に入ってから研究所流出説の勢いが増す中、コロナ起源論争を放置すれば、バイデンは共和党支持者だけでなく民主党支持者からも「中国に甘い」と批判されていたはずだった。

バイデンにその意図があったかどうかは知らない。だが、バイデンが追加調査を指示したことは「大統領が研究所流出説の可能性があることを正式に認めた」ものと解釈された。民主党支持者の中には「トランプが吹聴する研究所流出説は信じられない」と思う者もいた。だが、バイデンも〈公認〉したのであれば、研究所流出説を門前払いする理由は消えた。

バイデンによる追加調査の指示は、メディアやSNSプラットフォーマーによる研究所流出説の取り扱いにも影響を与えた。2021年2月、Facebookは保健機関と協議して「新型コロナウイルスが人為的に作られたものである」という主張の入った記事の掲載を禁止しており、研究所流出説もNGにした。5月26日、Facebookはその禁令を解除した。[39] Twitterも同様の対応をとった模様だ。[40]

8月27日、米諜報機関コミュニティはバイデンに報告書を提出した。[41] ウイルスが生物兵器として開発されたのではないという判断は示されたものの、肝心の〈自然界起源説と研究所流出説のどちらが正しいか〉については結論が示されなかった。既述のとおり、自然界起源説を支持するのが4機関、研究所流出説を主張するのが1機関だった。しかし、研究所流出説が〈真犯人〉の公式な候補として生き残ったことの意味は極めて大きい。今後、研究所流出説はネット空間を自由に羽ばたき続けることになる。党派を問わず、研究所流出説を信じる米国民はもっと増えるに違いない。

おわりに

本稿を書くのはいつもより骨が折れた。新型コロナウイルスの起源について調べる際、情報の信憑性をチェックするのにやたらと手間がかかったからだ。

例えば、今年6月に「中国の情報機関である国家安全部の董経緯(ドン・ジンウェイ)副部長が米国に亡命し、米国政府に研究所流出説の証拠を提供した」というニュースが出て、日本のメディアでも報じられた。事実なら、研究所流出説が正しかったという決定打となり得る。だが、ネタ元を探したら、急進右翼やトランプ主義者の牙城のようなネットメディアであった。[42] いかにも胡散臭い。続報も見当たらなかった。しばらくネット空間をさまよった末に、SpyTalkという新興のニュースサイトが米政府関係者にインタビューし、「董の亡命は事実ではない」と伝えている記事を見つけた。[43] しかし、SpyTalkというサイトを信用していいのか、自信が持てない。同じ記事の中に私が何度も会ったことのある米国人研究者の発言を見つけ、「この記事は信用できる」と思うことがやっとできた。フェイク・ニュースを見破るのは、かくも面倒だ。大多数の人はここまで時間と労力をかけられるはずもない。しかも、フェイクが疑われる情報は次から次へ湧いてくる。AVPを出すのでなければ、私も途中でやめていただろう。

まあ、私の苦労話はどうでもいい。本当の問題は、「中国の政府高官が研究所流出説の証拠を携えて米国へ亡命した」というフェイク・ニュースが急進右翼系のニュースサイトなどで拡散されまくった、ということ。拡散の過程で、ある亡命中国人は「3月にアラスカで行われた米中外交トップ会談の席上、王毅外相が董の引き渡しを要求し、ブリンケン国務大臣は拒否した」という仰天話をツィートしていた。こうした報道やツィートに接した人の多くは「研究所流出説は正しい」という確信をますます強めたことだろう。そして今も、董経緯亡命のニュースがフェイクであることを知らないまま、研究所流出説を拡散させているに違いない。

気がつけば、新型コロナウイルスが武漢のウイルス研究所から流出したという説は、客観的な証拠がほとんど何もないにもかかわらず、欧米では最も多くの人に信じられている。かたや中国では、自然界起源説でも研究所流出説でもなく、米軍起源説が最有力の説となりつつある。どこを見ても「フェイク・ニュースもどき」が闊歩している。こんな有り様では、新たなパンデミックを防ぐための有効な手立てを講じることなど、とても期待できない。情けない。でも、これが現実だ。

 

※ 本稿を書くにあたっては、2021年1月4日付AVP第15号「ネット・フェイク病の蔓延と民主主義の危機~民主主義考2020s①」の続編という面も意識した。[44] 研究所流出説の伸張ぶりは、現代のネット社会でフェイク・ニュース(もどき)が巧みに浸透していくことを如実に示している。本稿を書きながら、私は「この調子では民主主義の土台がフェイク・ニュースという事態も十分にありえる」と危機感を強めた。読者にも同じ危機感を共有してもらえれば、大変うれしい。

 

 


[1] 電子顕微鏡で見た時に王冠(コロナ)状の突起を持つウイルスをコロナウイルスと総称し、風邪を引き起こすものを含め、何種類も存在することは周知のとおり。現在のコロナ禍を引き起こしているコロナウイルスの正式名称は「SARS-CoV-2」であるが、本稿では文脈に応じて「新型コロナウイルス」または単に「コロナウイルス」と呼ぶ。

[2] 後に述べるとおり、自然界起源説が正しいと考えている科学者たちの多くも、今日では研究所流出説をフェイクと断定することは避けるようになった。それに倣い、私も本稿で研究所流出説そのものをフェイク・ニュースと断定することは控える。しかし、「研究所流出説が正しい」あるいは「自然界起源説は間違っている」と〈断定する〉ことは一種のフェイク・ニュースと言ってよかろう。研究所流出説を流布させるために様々なフェイク・ニュースが織り交ぜられていることもまた事実である。

[3] 以下に示す世論調査は実施主体や設問に差異があり、それが調査結果に影響を及ぼすことは否定できない。しかし、大きな流れを追う分には問題なかろう。

[4] Nearly three-in-ten Americans believe COVID-19 was made in a lab | Pew Research Center なお、「研究所で作られた」という回答(29%)をブレイクダウンすると「意図的に開発された」が23%、「偶然作られた」が6%であった。

[5] Did a Chinese lab make the virus? Nearly half of Americans think so | YouGov

[6] POLITICO-Harvard poll: Most Americans believe Covid leaked from lab – POLITICO

[7] In Much of the West, Public Places Most Trust in WHO for COVID-19 Origin Information (morningconsult.com) なお、研究所流出説と自然発生説を100%から引いた数字は「わからない、意見なし」である。

[8] WHOの調査は、冷凍食品から感染が広がったとする仮説についても調べ、「可能性がある」と評価した。COVID-19ウイルスの起源に関するWHO調査報告書 | 公益社団法人 日本WHO協会 (japan-who.or.jp)

[9] ここで紹介した情報の多くは、DRASTICと呼ばれるグループがネット空間を通じて発掘したものである。DRASTICの中心人物はインドのアマチュア・ネット住民と言われるが、グループの背景や実態はよくわかっていない。日本でも一部でDRASTICを英雄視する論調が見られるようだ。しかし、拙速な評価は控えるべきだと私は思う。D.R.A.S.T.I.C. Research – D.R.A.S.T.I.C. Research (drasticresearch.org)

[10] 「研究所流出説」を甦らせた素人ネット調査団、新型コロナの始祖ウイルスを「発見」!|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp) 武漢研究所は長年、危険なコロナウイルスの機能獲得実験を行っていた|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp)

[11] コロナ研究所流出説を裏付けるコウモリ動画|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (newsweekjapan.jp)

[12] 武漢ウイルス研究所職員、19年秋に体調不良で通院か 米報告書 – WSJ

[13] Why many scientists say it’s unlikely that SARS-CoV-2 originated from a ‘lab leak’ | Science | AAAS

[14] ウォール・ストリート・ジャーナルの記事のネタ元は米国務省の諜報機関の可能性が高い。国務省では研究所流出説を強く主張する担当者と、外部の科学者による精査を求める上司が激しく対立するなど、何かときな臭い動きがあった。米のコロナ起源調査、確定的な結論に至らず=当局者 – WSJ

[15] Unclassified-Summary-of-Assessment-on-COVID-19-Origins.pdf (dni.gov)

[16] Taking a look at the media’s role in the Covid-19 lab leak theory – CNN

[17] CNN.co.jp : トランプ氏、コロナ研究所起源説の「証拠見た」と主張 情報機関声明と矛盾

[18] ポンペオは「30メートルにも積みあがった証拠がある」と今も言い続けている。Mike Pompeo on ‘evidence’ of Covid lab leak despite lack of proof | news.com.au — Australia’s leading news site

[19] 2020年7月30日付AVP第7号「米中関係注意報~中国とのイデオロギー対立を前面に出して『有志連合』を呼びかける米政権」を参照のこと。https://www.eaci.or.jp/archives/avp/88

[20] バノンについては、AVP第15号「ネット・フェイク病の蔓延と民主主義の危機~民主主義考2020s①」を参照のこと。https://www.eaci.or.jp/archives/avp/231

[21] 郭は習近平の反汚職キャンペーンから逃れる形で2014年に米国へ亡命した。米国でも証取法違反などの疑いで取り調べを受けている最中である。なお、本節の記述はニュース・タイムズの記事に拠る部分が多い。How Steve Bannon and a Chinese Billionaire Created a Right-Wing Coronavirus Media Sensation – The New York Times (nytimes.com)

[22] 彼女の名誉のために言うと、閻は博士である。ただし、取得分野は眼科だった。

[23] 2020年7月30日付AVP第7号「米中関係注意報~中国とのイデオロギー対立を前面に出して『有志連合』を呼びかける米政権」を参照のこと。https://www.eaci.or.jp/archives/avp/88

[24] Chinese virologist: China’s government ‘intentionally’ released COVID-19 | Fox News

[25] Taking a look at the media’s role in the Covid-19 lab leak theory – CNN

[26] The spread of true and false news online (science.org)

[27] 元々の意味は「音楽録音用の残響室」を意味している。

[28] Measuring magnetism: how social media creates echo chambers (nature.com)

[29] The coronavirus wasn’t made in a lab. So why does the ‘Yan report’ say it was? (nationalgeographic.com)

[30] 日本語訳は「真理の錯誤効果」や「真実性の錯覚」となっているが、どうもピンとこない。本稿では「錯覚による真実化」効果と訳した。

[31] Illusionary truth effectの解説については  https://www.vox.com/science-and-health/2017/10/5/16410912/illusory-truth-fake-news-las-vegas-google-facebook からの引用である。

[32] 別の実験によれば、〈情報探しにあまり関心を払わない人〉の方が〈情報を熱心に探す人〉よりも「錯覚による真実化」の影響を強く受けることが別の実験によってわかっている。前者は自分の〈好み〉に合わない情報にも目を通す可能性が高いため、情報の真贋を判断する機会が増えるためだ。コロナの起源にそれほど強い興味を持たない人は最初に見た情報を信じる可能性が高い、ということになる。耳目を引きやすい研究所流出説の方が浸透には有利だと考えてよい。COVID-19 Echo Chambers: Examining the Impact of Conservative and Liberal News Sources on Risk Perception and Response | Health Security (liebertpub.com)

[33] Trust in Medical Scientists Has Grown in U.S., but Mainly Among Democrats | Pew Research Center

[34] 「ウイルスが中国の研究所で作られたという科学的根拠はない」 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト (nikkeibp.co.jp)

[35] ダザックについては、「中国に甘すぎる」と言われても仕方のない部分があると私も思う。だが、ファウチに対する批判は〈言いがかり〉としか思えない。NIHは過去、ダザックが代表を務めるNPOエコヘルス・アライアンスを通じて武漢ウイルス研究所にコウモリのコロナウイルス研究費として60万ドル(約6600万円)の補助金を出していた。2021年6月、情報開示請求に基づいてファウチのEメール数千通が公開された。ダザックは2020年4月にメールを送り、ファウチが研究所流出説を否定したことを「勇敢」だと褒めていた。それに対してファウチが「優しい言葉をありがとうございます」と返信したメールも見つかった。急進右翼たちはこのやり取りをファウチがダザック及び武漢ウイルス研究所と癒着していた証拠とみなした。かくして、保守系メディアやSNS上ではファウチに対する誹謗中傷がバズったのである。

[36] Investigate the origins of COVID-19 (science.org)

[37] Here’s What Dr. Fauci Has Said About Covid’s Origins And The Lab Leak Theory (forbes.com)

[38] 米国政府内には18の諜報機関が存在する。Members of the IC (dni.gov)

[39] Facebook no longer treating ‘man-made’ Covid as a crackpot idea – POLITICO

[40] YouTubeは「コロナの起源についてはコンセンサスがない」ことを理由にして、研究所流出説の掲載をもともと禁止していなかった。

[41] Unclassified-Summary-of-Assessment-on-COVID-19-Origins.pdf (dni.gov)

[42] China’s top official defected to US, gave Biden admin information about Wuhan lab: Report (republicworld.com)

[43] Feds Shoot Down Rumor China’s Missing Spymaster Dong Jingwei Defected to U.S. (thedailybeast.com)

[44] https://www.eaci.or.jp/archives/avp/231

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